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「札幌美唄会」が平成13年年初に発行した、美唄東高校閉校記念特集です。

   「札幌美唄会」会報誌第12号 平成13年版

     永久なれ栄光の歴史 美唄東高等学校閉校 

 地域の教育に関する熱い想いを受けて昭和21年3月、教育目標「勉学」「勤労」「健康」「責任」を掲げて町立美唄高等女学校として発足した美唄東高等学校は、平成13年3月31日55年の歴史を閉じる。
   
草創
 顧みると、戦後の想像に絶する物資不足時代に高等女学校が認可され、美唄小学校の一部を仮校舎としてスタート。昭和22年3月学校教育法施行。6・3・3制の実施により、誕生したばかりの女学校に新入生が皆無という事態(小学校卒業生は全員新制中学校に進学)に直面町当局は女学校を新制高校に昇格すべく北海道知事に申請、昭和23年3月認可され同年4月町立美唄高等学校が発足した。
 町当局も当時「新学制実施準備協議会」を設け6・3制の小中学校対策に追われていたが、高等学校部会をつくり高校対策に当った。
当時は明日の食糧も事欠く時代。協議会・高等学校設立期成会・女学校PTA等は学校用地の確保、校舎建設資金の準備の難事業に当った。
 学校用地については困難を極めたが、前田伊三郎氏の勇断で農地3.5f寄贈により解決。一方、校舎建設資金は高校認可申請書に2分の1を父兄等の寄附に依存する含みの表現があり、期成会の方達による寄附集めの苦労が始まった。
この難事業は昼夜を分かたず2年に及ぶ汗みどろの募金活動の結果。一応の成果を見て終結とした。
学び舎
 昭和23年8月第一期工事起工。工事なかばに暴風雨により建設途中の校舎が倒壊(昭和24年5月7日)する事故に遭遇。建築業者の誠意により昭和24年8月一期工事の完成を見た。その後6次に亘り工事が続き昭和29年6月全校舎完成落成式を挙行。
 年を経て生徒増に伴い増築工事が行われたが、本校舎の老朽化が進み昭和51年全校舎改築決定。諸般の事情で起工が遅れるなか、昭和53月6月3日原因不明の火災で教室等13室全焼。当日高体連南空知地区大会開催中であったが、消防・市民・生徒・教職員の協力により被害を最小限に留めた。
 改築工事は火災後の応急対策工事の中、6月14日着工、二期に分けて進められ昭和55年1月完成。雨・風・雪に悩まされ、渡り廊下をこうもり傘を差しての教室間移動も終了した。昭和55年3月には美唄東高等学校の伝統を生み、三十数年の歴史を刻んだ旧校舎はすべて解体された。
学業・クラブ活動
 昭和25年4月美唄町は市制施行。この年、草創の苦難を超えて新入生360名を迎えた美唄高等学校は3年生まで全学年が揃い、伝統となる学校行事の原型が決った。しかし、行事を行うには生徒・教職員共に夏休みを返上し、グランドの整地作業に汗を流した苦労の時代。定時制課程の設置、道立へ移管、校歌の制定、そして昭和26年10月北海道美唄東高等学校と改称。
炭鉱の隆盛、美唄市の発展に合わせ校舎も整備され普通科高校の進学校として、歴史は浅いが名門に互する真価を発揮、全道に名を馳せた。
 昭和31年4月、美唄市の人口92,150人のピークを迎えた頃から生徒数が増え学級数が増加。41年4月には30学級(1学年10学級)生徒数1,545名の校史上最大規模となり、学業と共にクラブ活動も目覚ましい活動をみせた。
陸上競技・弓道の全国大会出場、スポーツ各クラブの全道大会出場等の活躍や道大会出場等の活躍が記録として残されている。
 演劇部は道内トップレベルにあり、全国高校演劇コンクールで優秀校に選ばれ、また放送部も全国大会に出場し成果を収める等文化系各クラブも多くの実績を残した。
「文化祭」「学校祭」と歴史を重ねた「美東祭」は仮装行列を加え学校最大の行事となり、市中の話題を集めた。
終業・そして
 校旗を始め栄光の数々は新設の美唄高等学校の資料室に保存される。校舎は改造エ事を終え、平成13年4月から美唄聖華高校が使用する。昭和41年建設された同窓会館はクラブ活動の合宿等に活用されたが、役目を終え老朽化のため解体される。
 卒業生15,026名を送り出す美唄東高等学校は同窓会PTAと共に敷地内に記念碑を建立し母校と同窓生の永遠の絆とした。
閉校式・「集う会」
 同校の閉校式を平成13年3月3日午前10時から屋内体育館で、「集う会」を同日12時よりホテルスエヒロで行う。

「札幌美唄会」会報誌発行責任者 阿曽邦夫様(美東3期生)のご了解を頂いて掲載しております。